スピリチュアル色は薄めです。 普通の人間関係にも当てはまるような形で書いています。

性善説か性悪説か

こんにちは。

ご無沙汰してます。一年ぶりの投稿です。

お元気でしたでしょうか。

 

正月早々、大きな地震に事故が重なって、大変な一年の始まりとなりました。

被害に遭われた方に心からお見舞い申し上げます。

これ以上、被害が広がらないことと、一日も早く日常生活を取り戻せることを願っています。

 

世界に目を向けると、昨年はロシアとウクライナの戦争だけでなく、中東やアフリカでも激しい紛争が起き、今も続いています。

 

こういう状況を見ると、人間の本質は何も変わっていない、変わらないように感じてしまいます。

何千年、何万年も争いを繰り返しているように思えます。

 

人間は自分だけで成り立っているのではなく、体の細胞一つ一つを成り立たせ、それらを一個の命として統合、機能させる働きが備わっています。

 

この世に生まれてきた目的の一つは、カルマ(今世での課題)を果たすとともに、その働き・・・命を成り立たせている働きや、その働きの元となる根源的な存在を認識することにあります。

 

生物には、命を成り立たせる働きが備わっているという意味で、本質的には善と言えるかもしれません。

 

しかし、命(存在)を持つということは、この世では別の存在と対立する可能性を常に持っています。

 

その時、自分の存在を中心として、自分の利益や欲求を満たす、自分の存在を守るという働きが強くなると、他者との軋轢や争いが生まれ、悪という状況が生まれてきます。

 

つまり、人間は常に善と悪の狭間にあって、そのバランスを取るように生きる必要がある、ということです。

 

国のレベルでも同じで、国という存在を持つということは、他国との対立を常に含んでいます。

それぞれの国が自国の利益だけを主張していたら、一向に争いは解決しません。

 

当事者になると、なかなか客観的に物事を俯瞰することは難しいですが、自分の立場を超えて、相手の立場も考えてみることで、自他の区別を超えたところへ成長していけるように感じます。

 

自分の利益だけを最大化するように努力しているうちは、二極化が進行して新たなカルマを生み、同じことを繰り返すことになりますが、人間には対立を調整し、さらに上の次元へ向かう力が備わっています。

 

自分を信じつつ、常に反省を忘れず、精神的な成長を目指していけたら良いですね。